2007年8月30日木曜日

チショイ・ダムとリオ・ネグロの大虐殺

グアテマラ バハ・ベラパス県 ラビナル
2007年7月26日

テーマ 戦後 / 歴史の記憶 / 巨大プロジェクト

2007年7月の最終週、グアテマラのNGOライツ・アクションが組織した派遣団がラビナルの町を訪れた。メキシコ、カナダ、アメリカの活動家をメンバーとするこの派遣団の目的は、ここラビナルで繰り広げられる人々の闘いについて学ぶことであった。「経済発展」という名の下、最も残忍な方法で人々の命を奪った事件に関する正義と回復を求め、人々は長く険しい道を歩んでいる。

「チショイ川沿いに位置するラビナル市リオ・ネグロ共同体は、農業、漁業、そして近隣のショコク共同体との物々交換で生計を立ててきた。」(1)

「1975年、国家電力庁(INDE)はチショイ川流域における水力発電プロジェクトの建設計画を発表した。同計画は、世界銀行や米州開発銀行(のようないくつかの国際金融機関)の援助の下行われるプロジェクトであった。(2)

これに対し、 リオ・ネグロ共同体の住民らはいくつかの理由を挙げ土地の立ち退きを拒否した。この巨大プロジェクトに関する事前協議が全くなかったことに加え、 「関係当局はリオ・ネグロの住民をパクーシュに再定住させようとしていた。 パクーシュは乾燥地域にあり、加え、そこに用意される住居はリオ・ネグロの住民の文化的、伝統的生活様式にそぐわないものであった。」  さらに、マヤ系先住民アチ民族であるリオ・ネグロの住民は、1000年以上わたり伝統を守ってきたことにより、この地域に特別の愛着を持ち続けてきたのだった。「チショイ川流域には、マヤ古典期(紀元前300年から西暦900年)以来先住民が居住しており、神聖なる儀式を執り行う場所が未だ多く残っているのだ。」(3)


ラビナル郊外にある遺跡、カフュップ(写真上)。マヤ後古典期(西暦900年から1524年)に建設されたものだ。(4)


「1980年3月5日、プエブロ・ビエホにあるチショイ・ダム労働者用の食堂から豆を盗んだかどで、リオ・ネグロの住民2名が告発された。2名の兵士と巡回中の憲兵1名が、住民らをリオ・ネグロまで追いかけた。彼らがリオ・ネグロにたどり着くと、 酒に酔った共同体の住民が憲兵に殴りかかった。自身を守ろうとした憲兵は発砲し、結果、リオ・ネグロの住民7名を殺害した。共同体の住民はすぐさま反撃に出、石やマチェーテを用いこの憲兵を殴り殺した。 翌日、グアテマラ軍は共同体の住民はゲリラであるとし、彼らがリオ・ネグロを立ち退かない理由がそこにあるとしたのだった。」(5)



「1981年までに、特定の共同体リーダーを狙った最初の失踪事件が起こる。」(6)


「1982年2月、ゲリラと推測される武装グループがショコクの市場に焼き討ちをかけ、これに巻き込まれた5名が犠牲となった。軍部がこの事件の責任はゲリラ及び共同体メンバーにあるとしたことから、市場を焼かれたショコクの人々はリオ・ネグロとの商業的つながりを断ち、彼らを敵と宣言したのだった。」その後、軍部はショコクにおいて自警団(PAC)を形成した。この自警団はショコク共同体の住民から成る民兵組織であり、彼らは「軍部による指導、訓練及び武器供与を受け、それ以降リオ・ネグロ共同体と対立することとなる。」(7)


「ショコク自警団はその最初の活動として、1982年2月7日にミーティングを招集した。ラビナルに派遣された軍部からの指示の下、リオ・ネグロからは150名の住民が集まった。ショコク自警団は集まった住民がゲリラのメンバーであると非難し、市場を焼き払ったのが彼らの仕業だとした。リオ・ネグロの住民はこれを否定し、自分たちも市場を利用していたのだから、焼き払う理由などどこにもないと主張した。」それから1週間後、リオ・ネグロの住民らは再びショコクに集まるよう命じられる。「1982年2月13日、リオ・ネグロの住民74人(男性55人、女性19人)がショコクを再び訪れ、全員が自警団による処刑を受けたのだった。」(8)


「1982年3月13日朝6時頃、12名の軍メンバーが15名のショコク自警団と共にリオ・ネグロにやって来た。彼らは共同体の住民を集め、丘へと続く3キロの道のりを歩くよう指示した。パコショムの頂上にたどり着くと、軍と自警団のメンバーらは非武装の住民に対し拷問を行い殺害した。木に吊るし上げられた人もいれば、マチェーテや銃で殺された人もいた。午後5時頃虐殺が終了すると彼らはショコクへと戻り、生き残った18人の子供たちを自分たちの共同体へと連行した。のちの証言で確認された犠牲者数177名(女性70名、子供107名)は、非武装の一般市民であったリオ・ネグロの住民数と一致する。(9)


「ショコク共同体自警団のメンバーは虐殺の実行を強要されたのであり、これは重要なポイントだ。彼らは殺害に加担させられた上、 隣接する共同体間の構造を破壊する直接的手段として用いられたのだった。軍はある村を選び、近隣の村と敵対するように仕向けていたのだ。」(10) 今日においても、同様の戦略が先住民の共同体に対する住民強制排除に用いられている (先住民強制排除に関しては、こちらの記事 「問題のカナダ系鉱山プロジェクト、先住民の共同体に立ち退き命令」 「失われたバリオ・ラ・レボルシオン」をご参照ください)。

ヘスス=テク=オソリオは当時10歳。1982年3月13日に行われた大虐殺を生き延びた子供たち18名のうちの1人だ。虐殺の後、オソリオは自警団メンバーであったペドロ=ゴンザレス=ゴメスの指示の下に生きることとなり、その日々はまさに生き地獄であった。 虐殺後の日々を綴った自伝『リオ・ネグロ大虐殺の記憶―両親への追悼、子供たちに残す記憶』によると、テク=オソリオは「まもなく自分が自警団の奴隷となったことを知るのだった。その後2年以上にわたり、私の人生に存在したのは苦痛と涙、それだけであった。私はゴメス一家の使用人として使われたのだ。」(11)


一方、世界銀行と米州開発銀行は水力発電プロジェクトヘの資金援助を継続する。「1985年、世界銀行はグアテマラ政府に対し2回目となる分割貸付を行った。これはリオ・ネグロの大虐殺から3年後のことだった。チショイ・ダムの一件により、 (前述の)国際金融機関が住民強制排除に関与していることがはっきりと浮き彫りにされた。 グアテマラの先住民共同体に対して行われた、残酷かつ非合法な強制排除への共犯である。」(12)


和平協定締結以前の1993年、ヘスス=テク=オソリオとカルロス=チェン(写真左)は、リオ・ネグロの生存者と共に、正義そして社会的・精神的回復のプロセスを求める行動を起こした。これと年を同じくして、絶えず続く圧力や深刻な脅迫の下、集団墓地の一連の発掘作業が行われ、かつてのリオ・ネグロの住民たちの何百もの遺骸が掘り起こされた。1996年、『マヤ・アチに対する暴力の犠牲となった人々のための統合発展協会(ADIVIMA)』が結成され、1998年には住民のためのリーガル・クリニック(法律に関する相談を受け付ける機関)が開設された。現在、地元活動家やラビナルの組織が先頭となり、チショイ・ダムの一件に関する正義、賠償、回復を求める闘いが続いている。


ライツ・アクションの共同代表グラハム=ラッセル(写真右)が、カルロス=チェンの声明を英語に訳す。1993年以降、ライツ・アクションはラビナルの主要な活動に対し資金援助を積極的に行っている。テク=オソリオの自伝やADIVIMAの整備、リーガル・クリニックの開設、そして現在も続くチショイ・ダム建設に関する賠償を求める活動などを支援している。


様々ある組織の中でもADIVIMAとライツ・アクションにとって重要な成果の1つは、ラビナル・アチ共同体博物館の構築であった。記憶にまだ新しい虐殺の歴史を人々の心に留める役割を果たすとともに、博物館では図書館、コンピューター室、地元マヤ系アチ族の文化と豊かな伝統を伝える特別展示も行っている。


リオ・ネグロの生存者ニコラス=チェンは、虐殺の犠牲となった家族の写真が展示されているこの博物館に何度も足を運ぶ。娘マルタ=フリア=チェン=オソリオの写真に触れるチェン。写真の説明書きにはこう記されている。「彼女は臨月まであと少しというところで殺害された。 医者のふりをした兵士がマチェーテを使って『帝王切開』を強制したのだった。 襲撃者たちは母体でどのように子供が育つのかを知りたかったのだ。彼らはその『離れ業』を成し遂げた。 一体どうしたら、無防備な一市民の命をこのような不条理な方法で奪うことができるのだろう!?」


ラビナルにとってのもう1つの象徴的な成果は、内戦犠牲者を祈念する慰霊碑を市営墓地に建造したことである。廟の1つひとつには犠牲者の名前が刻まれ、それらの多くが、文字やその壁に描かれた絵を通して虐殺の様子を再び語っている。

これはアグア・フリアの虐殺による犠牲者を追悼する慰霊碑である。 「未来の世代が真実を知るために。97人の慎ましい農民 ― ショコクの自警団及びグアテマラ軍部によって残忍なまでに身を焼かれ虐殺されたキチェ県ウスパンタン市アグア・フリア集落の男女、子供たち― がここに眠る。」



先述したリオ・ネグロにおける大虐殺の生存者は、 アグア・フリアのような近隣の村々に助けを求めた。リオ・ネグロ全住民の根絶を図ろうと、 軍部はショコクの民兵組織と協力し、生存者を追跡し命を奪ったのだった。



ライツ・アクションは慰霊碑の建設に対しても資金援助を行った。彼らが組織した派遣団は、ラビナルの墓地にあるいわゆる「慰霊碑通り」を歩く。


グラハム=ラッセルは、現在のグアテマラが直面している内戦後の時代、そしてライツ・アクションの哲学及びその使命を理解するには、ラビナルの事例が非常に重要であると語る。その理由は、「全世界おける公平さ、持続可能な開発そして人権の尊重を求める私たちの活動理念は、共同体が自ら描き実行するプロジェクトを資金面で援助することにある。共同体が資金面やプロジェクトの優先順位を決める際には地元リーダーの先導を支え、国際機関(この場合は世界銀行と米州開発銀行)の活動が往々にして人権侵害(グアテマラの場合では集団虐殺)の原因となっていること、あるいは人権侵害という犠牲の上に成り立つ恩恵を得ていることに焦点を当てた南北の学習旅行を主催している。」


スペイン語とマヤ・アチ語の2つを用い教育活動を行う共同体機関、ヌエバ・エスペランサ(スペイン語で『新しい希望』の意)を派遣団が訪問する。ヘスス=テク=オソリオの長年の夢が実現した学校である。ここでは共同作業に基づいた新しい学習課程に沿って教育活動が行われ、クラス全体を担当する教師の代わりに個別指導制が採用されている。歴史の記憶に基づいた教材を用い、持続可能な農法を教授する特別クラスも設けている。


テク=オソリオは名高い国際人権賞を得た人物でもある。同賞の受賞をきっかけに自ら『リオ・ネグロ・ヌエバ・エスペランサ財団』を立ち上げ、財団を通じて学校への資金援助を行っている。彼の焦点は将来に向けられている。「国家が後押しした暴力の影響を受けた全ての人々が、いつかある程度の学問的達成を得られることを目指し、私はこれからも新しい選択肢を提供するようなプロジェクトを探しつづけるよ。」(13)


フェルナンド=スアソ(写真ヘスス=テク=オソリオとライツ・アクションのサンドラ=カフの左)は、グアテマラでも最大級の、そして非常に重要なプロジェクトに参加してきた。ラビナルの大虐殺の記録編纂や、レミーの名で知られる歴史的記憶の回復プロジェクト報告書作成等、歴史的な記憶の回復を目指す取り組みである。この地域で10年以上にわたりカトリックの司祭として勤めた経験をもつスアソは、その間、一般住民が受けた重度の心理的な傷を目の当たりにしてきた。それをきっかけに1996年スアソは『共同体研究と心理社会的アクションのためのチーム(ECAP)』を立ち上げた。こういった組織は、主に2つの大きな活動を行う。1つは内戦が引き起こした心理社会的現象の調査であり、もう1つは遺骸の発掘、証言等、心理的な負担が大きいプロセスに関わる内戦犠牲者及び数々の虐待経験からの回復過程にある人々への「護衛的同行」(第三者の存在によって暴力の発生を防ごうという活動)である。


大きな論争の的である内戦後の時代に関して、スアソは自身の見識を参加者と共有する。「平和な時代 ―正式な、明文化された平和― への移行は、その道筋がうまく策定されなかった。徹底的に強いられた沈黙の下生きてきた一般市民が、気まぐれに和平協定についての交渉を始めるわけがなかったのだ。彼らは和平協定が結ばれてからも沈黙を破ることはなかった。人々はその「声」を失い、恐れ戦き、心に傷を負っていた。一般の人々は和平プロセスに関わることができなかった。その結果が現在のグアテマラの姿なのだ。」



ラビナル共同体の活動の中で正義に関する最大の達成(地域レベルにとどまらず国家レベルにおける達成)は、前述のペドロ=ゴンザレス=ゴメス及び自警団メンバー2名に対する有罪判決を勝ち得たことである。人道に対する凶悪犯罪を理由に、3名ともが50年の禁固刑に処されている。しかし、こういった犯罪を先導した「知的」責任者、とりわけ1980年代の高級将校や軍事独裁者らを訴追することは、汚職や脅迫が未だそのプロセスに蔓延り、責任逃れが横行する困難な作業となっている。

それでもなお、先述の象徴的な成果は一連の出来事の鍵となる要素であり、これからもまたそういった存在であり続けるだろう。住民が勝ち得たものを象徴する格好の例として、かつての独裁者エフライン=リオス=モントのパナマ帽が、ラビナル・アチ共同体博物館に展示されている。1982年から83年にかけてグアテマラで独裁を振るったリオス=モントは、右翼政党『グアテマラ協和戦線党』のキャンペーンの途中にあった2003年6月14日、ラビナルの町に立ち寄ろうとした。折しもこの日、集団墓地から発掘された内戦犠牲者70名の遺骸の埋葬が予定されており、リオス=モントにとってはまさに泣きっ面に蜂のタイミングであった。地元住民らは堪えきれずに投石を始め、彼はラビナルの町を追われたのだった。その間リオス=モントは帽子を失くし、それが現在、ここ共同体博物館に残されている。リオス=モントが帽子を失くしたこの日は地元の祝日となり、毎年6月14日に『厳かなるラビナル住民の日』として記念されている。

これらプロジェクトの詳細や学習旅行プログラムの開催・参加について、及びラビナル統合開発プログラムへの経済的支援を希望される方は、ライツ・アクション(
info@rightsaction.org)までお問い合わせください。

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1. 歴史究明委員会(CEH)『Casos Ilustrativos, Tomo I. Caso Ilustrativo No. 10: “Masacre y eliminación de la comunidad de Río Negro』付属文書 45頁
2. 同上45-46頁
3. 同上46頁
4. Oj K’aslik / Estamos Vivos: Recuperación de la Memoria Histórica de Rabinal (1944-1996). Publicado por el Museo Comunitario Rabinal Achi. Rabinal, Guatemala. Julio 2003 29-30頁
5. 前掲歴史究明委員会(CEH) 47頁
6. 同上48頁
7. 同上48-49頁
8. 同上49頁
9. 同上49-50頁
10. 歴史究明委員会(CEH) Capitulo Segundo: “Las Violaciones de los Derechos Humanos y los Hechos de violencia”, Parte 2 373頁
11. ヘスス=テク=オソリオ Memoria de las Masacres de Río Negro: Recuerdo de mis Padres y Memoria para mis Hijos. Fundación Nueva Esperanza, Río Negro. Rabinal, Guatemala. Reimpresión 2006 101頁
12. Continuing the Struggle for Justice and Accountability in Guatemala: Making Reparations a Reality in the Chixoy Dam Case. Centre on Housing Rights and Evictions (COHRE) Mission Report, 2004 5-6頁前掲ヘスス=テク=オソリオ 165頁


2007年8月27日月曜日

不法占拠者なんかじゃない 私たちはグアテマラの先住民

グアテマラ アルタ・ベラパス県パンソス市 ラ・パス及びロテ 8つの共同体
2007年6月24日 パートII

テーマ 土地、先住民の権利、鉱業活動

この7月、ライツ・アクションはメキシコ、アメリカ、カナダの活動家からなる代表団を組織し、その活動の一環としてアルタ・ベラパス県にある共同体を訪問した。訪問先となった共同体は、2006年11月から翌1月にかけてグアテマラ・ニッケル会社(以下CGN)による暴力的な住民強制排除の対象となった場所である。ドン=アルトゥーロと名乗るラ・パス共同体の住民がその際に語った言葉を紹介する。


我々は、空腹だからここにいるんだよ。自分たちも食べていなかくちゃならないし、おなかを空かせた子供たちだったいるんだ。


大企業は莫大な数の区画をここグアテマラで手に入れたよ。我々先住民の存在は無視され、社会の周辺へと追いやられてしまったのさ。

自分たち、そして子供たちが食べていけること、それこそが我々がこの土地にいる理由なんだ。鉱山会社は毎月何度もここへやってきて、この土地が彼らのものだと明言していくさ。しかし、我々が今立っているこの土地は、我々先住民、そしてその子供たちのものなんだ。その事実は揺るぎないものだよ。
多くを求めはしないよ。我々に必要なのは生きる場所、そして自給の食物を育てる場所。

それだけだよ。食べて生きる、それ以外に何も求めはしないさ。

住民強制排除で家が失われ、我々は雨、風、空腹、寒さを耐え忍ばなければならなかったよ。

しかしまた戻ってきたよ。我々はここにいる。数少ない持ち物は破壊されたが、また立て直したんだ。それが意味するところは、我々が本気でこの土地に生きたいってことなんだ。子供たちは我々に頼るしかない。子供たちのためにこの闘いを続けるよ。どうしたってこの一区画の土地が必要なんだ。

ここへ足を運んでくれたことに感謝しているよ。 我々を取り巻く現実が、グアテマラから世界へと広く知られていくことになるのだからね。

代表団の訪問の間、マヤ系ケクチの人々が住むこの地域の共同体に対し、また新たな強制排除を行うという通達がCGNによって出されたことが確認された。皮肉にも、排除の実行は『国際先住民デー』である8月9日とされた。しかし、住民との新たな対話の道を開くためなのか、それともCGN(またはその親会社であるスカイ・リソーシーズ社)がさらなるイメージの低下を避けるためなのか、はたまた総選挙が9月9日にさし迫り、同社のグアテマラ国内における微妙な政治的立場を考慮してのことか、結局のところ、この強制排除は無期限に延期となったのだった。

8月9日の強制排除が実行に移されなかったとは言え、共同体住民がその厳戒態勢を緩めることはない。立ち退き要求が間近に迫っていることを感じ取っているからである。以前はインコ社が、現在はスカイ・リソーシーズ社がこの地域で運営する鉱業活動は、暴力の長い歴史を持つ。そういった暴力は、内戦下にあった1970年代から80年代に特に集中し、特定の人々を対象とした抑圧や虐殺という形で加えられてきた。残虐行為は、広くその事実が確認、記録されており、その中でも特に、歴史究明委員会(CEH)やレミー(歴史的記憶の回復プロジェクト)が詳細にわたる報告書をまとめている。

今日、この地域の共同体が恐れているのは、同じ歴史が繰り返されることである。過去の強制排除において、地元住民が国家武力による暴力の被害者となってきたことに加え、この地域ではいわゆる「ブラックリスト」の存在がさかんに取り沙汰されている。このリストには、マヤ系ケクチの共同体リーダー28名の名前が載っているという。ラ・パス共同体の表向きのリーダー、フレディが結ぶ。「我々は不法占拠者なんかじゃない。グアテマラの先住民族なのだ。鉱山会社こそが不法占拠者なんだ!我々の父母たちはインコ社に立ち退かされたんじゃないさ。たった一区画の土地を求めたために虐殺されたんだ。」

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2007年8月3日金曜日

エル・エストール―強制排除から6ヶ月を経て

グアテマラ イサバル県 エル・エストール市 バリオ・ラ・レボルシオン
2007年7月24日(パートⅠ)

テーマ 土地問題、先住民の権利、鉱山開発


グアテマラの雑誌Este Paísを手にとり、誇らしげに周囲の人々に見せるフランシスコ=ティウル=トゥト。彼が住む共同体に対して行われた住民強制排除が同誌2007年2月号で取り上げられ、その表紙を飾ったのがトゥトの写真であった。 住民強制排除を行ったのはカナダ資本の鉱山会社スカイ・リソーシーズ社の現地法人、グアテマラ・ニッケル社(以下CGN)だ。同社は、イサバル県エル・エストール市及びアルタ・べラパス県パンソスにおいて、マヤ系先住民族ケクチの人々が住む5つの共同体に対する強制排除を行い、 先祖代々の土地から彼ら住民の立ち退きを余儀なくしたのであった。

現在、バリオ・ラ・レボルシオンとして知られるこの場所は、かつてはチチパテと呼ばれていた共同体であり、ティウル=トゥトはまだこの土地がチチパテという名前であった時代にここで生まれたのだった。「私が涙を流している姿を見て、 笑った人もいるだろう。だが私はこのとき本当にうろたえていたんだ。鉱山会社によって私の住居が焼き払われたのだからね。 」彼は言う。彼の取り乱した姿を写した写真は広く出回り、ケネス=クック駐グアテマラ・カナダ大使による攻撃の対象とさえなったのだった。クック大使は人権保護よりも鉱山活動の推進を優先させる立場を公にしており、 当ブログ管理者MiMundo.org が撮影した写真の信憑性を否定しようとしたのだった (大使の言動に関する詳細はこちらをどうぞ)。

今年7月24日、NGOライツ・アクションによって結成された使節団が、6ヶ月前の暴力的な住民強制排除の対象となった多くの共同体を訪問した。 その目的は、強制排除後の経過を知り、意見を交わすことであった。


カナダ資本の鉱山会社が引き起こしている土地問題や住民強制排除については、2006年12月から2007年1月に MiMundo.org が記録した以下のフォト・エッセーをご参照いただきたい。

The Eternal Struggle for Land
Eviction Day
Canadian Mining Company Orders Eviction of Indigenous Communities
Barrio La Revolución Burns
Eviction Despite Dubious Legal Status


バリオ・ラ・レボルシオンの共同体メンバーらは使節団の訪問への喜びと感謝の意を表明し、 ある住民は出版物に関しこのように述べた。 「このような形での情報発信は、私たちに対する好意と連帯の表れだ。 多くの人々が我々の共同体を訪れ、手を差し伸べると約束してくれる。だがそれが本当に実行されているのかどうか、私たちは知る由もないのだ。 こういった雑誌や新聞に掲載される情報によって、私たちを苦しめている不当な行為が、本当に広く知られることとなる。 グアテマラの国内のみならず、国際レベルにおいてもね 。」(1)


カナダの雑誌This Magazineのページをめくる女性と子供たち。「鉱山の悲劇」というタイトルの記事が、同誌2007年3-4月号に掲載されている。


ドン・アルフォンソ氏と彼の妻が、自分たちの姿を写した写真を見て笑う。 この写真は、共同体の歴史、住民の闘い、そして2007年1月8-9日の強制排除を記録するために MiMundo.orgが作成した写真集の見本版に掲載されている。 同写真集は、インターネットの自費出版サービス(ここをクリック)から注文が可能だ(英語) 。

MiMundo.org は、こういった記事の公表を助成することに関心のあるNGOや出版社によるアイディアや提案を求めている。 記事が対象として取り上げる人々に利するよう、よりよい費用効率で作品を出版する方法を模索している。出版に関するアイディアや提案があれば是非 james@mimundo.org 宛にお送りいただきたい(英語/スペイン語)。

2007年2-3月出版のニューヨークの雑誌Indypendence99号に掲載された見事な1面カラー記事に見入る共同体の住民。

共同体の土地問題に関して、ドン=トーマスは言う。「昨日から再びこの土地に住み始めた。(CGNと共同体の間で過去6ヶ月にわたり)多くの話し合いが行われたが、結局何の結論も出ていない。だからもう一度、私たちの土地を取り戻すためにトライしてみたいんだ。 この土地を耕し、子供たちに残していきたい。そのためにはそれを可能にする努力が必要なんだ。 土地を取り戻そうという私たちの決意は、CONICを通して既に政府に申し入れがなされているのだ。」


1月9日の強制排除以降、共同体の住民のほとんどは近隣のチチパテ村に住んでいる。しかし、懸案の土地が外国から参入した鉱山会社ではなく、 自分たちに属しているのだという確信を持って生活をしている。軍部独裁だった1960年代、地元住民の共同墓地を含むチチパテ村の大部分がインコ社(スカイ・リソーシーズ社の前身であるカナダ系鉱山会社)に与えられたのだった。 その際に奪われた土地が、チチパテの住民が現在バリオ・ラ・レボルシオンを呼び、 自分たちの土地であると主張している場所なのだ 。


「神が私たちに残してくれた土地は、皆に利するよう使われなくてはならない。 私たちの後を受け継ぐ子供たち、家族のためにね」(2)


「我々がこの土地を去る日など決してやって来ないさ。 この闘いを受ける覚悟ができているのだからね。 あなた方の訪問に、 ここで行われた暴力行為を忘れずにいれくれることに、そしてこれがこれからも続くだろうことを記憶に留めてくれていることに感謝しています。 我々の共同体に起こっていること、我々の権利が侵されていることを世界に暴くことによって、 これからも我々を支援してくれることを願っています。そしてまたここに来てください。 私たちの力となってください。 私たちが、これまでも、そしてこれからも、 私たちの土地であるこの場所を再び手にすることができるように。」(3)


バリオ・ラ・レボルシオンの入り口に掲げられたサイン。
「CONICここにあり。闘いはこれからも続く。」



注) このフォト・エッセーで言及された記事には 、トップページ右側の「出版された写真・記事」からジャンプできます(英語/スペイン語/イタリア語)。



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1. 共同体メンバーへのインタビューは2007年6月24日に行われた。注釈がついたコメントのケクチ語/スペイン語の通訳は、ディフェンソリア・ケクチ(AEPDI)のファシリテーター、アデルソ=ロメル=レイェスによる。
2. 同上

3. 同上